仲が良かった2人ですが…
2019年2月24日にドナルド・キーンさんが亡くなりました。それに合わせて、三島由紀夫さんについて気になりましたので、調べてみました。
ドナルド・キーンについてはこの記事を読んでください!
三島由紀夫(みしまゆきお)とは?
かなりの有名人なので、ご存知の方も多いと思いますが、簡単にご紹介しておきます。
- 本名:平岡 公威(ひらおか きみたか)
- 生年月日:1925年1月14日
- 死没:1970年11月25日(45歳没)
- 血液型:A型
- 戦後の日本文学界を代表する作家の一人。ノーベル文学賞候補にもなる
- 代表作:小説に仮面の告白、潮騒、金閣寺など。戯曲に鹿鳴館、近代能楽集など
三島事件を起こし、自害しています。概要はこちら↓
1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした行動に一様に驚きを示した。
(Wikipediaより引用)
ドナルド・キーンと三島由紀夫
2人は1957年に知り合い、それ以降親交が深くなります。
キーンは三島文学を高く評価していました。また、三島が印刷所に対する礼儀として原稿用紙の字を読みやすくきれいに書いていたことも評価しています。
関連記事にも書きましたが、手紙のやりとりも印象的なので、こちらにも載せておきます。
三島由紀夫はある時から手紙に「怒鳴門鬼韻(どなるどきいん)様」と当て字を使い始めた。そこで、ドナルド・キーンは仕返しに「魅死魔幽鬼夫(みしまゆきお)様」と書いた。
ノーベル文学賞について
1968年、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した人物が現れました。それは川端康成です。
この時の受賞候補には三島由紀夫も上がっていました。
上がっていた日本人の候補は、三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成、西脇順三郎の4人でした。当時の選考委員会のエステリング委員長は三島を高く評価していました。
ここで、日本文学の翻訳者で第一人者であるドナルド・キーンに推薦の依頼が来ました。キーンも三島が受賞に値すると考えます。しかし、日本社会や日本の文学界の年功序列制度を考慮したこと、また、三島が30代と若く、生きていれば受賞するチャンスはいくらでもあると考え、重鎮である谷崎を最有力として推薦しました。
しかし、1965年に谷崎が急遽他界したため、次点の川端が受賞することになりました。
ノーベル文学賞について
ノーベル文学賞受賞後、1972年に川端は自殺します。遺書は見つかっていません。これがノーベル賞受賞の影響かどうかはわかりませんが、受賞していなければ自殺はなかったかもしれないと考える人もいるようです。
また、三島は三島事件を起こします。これもノーベル賞を受賞していれば…と考える人もいるようですが、キーンは違います。
キーンは、NHKの「クローズアップ現代+」の取材に対して文章で回答を寄せています。その中で川端と三島について語っており、また、これが生前最後の取材対応になったとのことです。
川端については以下のように回答しています。
川端先生の死について、ノーベル文学賞の受賞者としてレベルに達した作品を書けなかったからその苦しみに耐えかねて川端先生は死を選ばれた、ということも考えられます。私自身もそう考えたこともありました。しかし川端先生は、美に対してはかり知れないほど繊細で、優れた感性をお持ちでした。そんなことに死を選ばれた原因があるのでは、と思うこともありますが、みな想像にしか過ぎません。川端先生が私に示して下さった慈愛に充ちた温かさは今もって身に沁みて感じます。
(NHK NEWS WEBより引用)
三島については以下のように回答しています。
三島さんは、本当は自分が欲しかったけれど、川端先生の受賞を純粋に喜んだと思います。三島さんにとって川端先生は、尊敬する恩師でしたから。川端先生の受賞が自決することの引き金だった、という考え方もあるようですが、そうとは思えません。個人的には三島さんに受賞して欲しかったので、必ずチャンスは巡ってきて受賞できたはずだったと思っていますからもっと生きて欲しかったと思います。夢のような話ですが、三島さんが生き返って受賞して欲しいと思うことさえあります。
(NHK NEWS WEBより引用)
2人の偉大な作家の死について、様々な想像をめぐらすのは自由です。しかし、キーンの回答を読み、2人の尊厳を貶めるような想像はしたくないと思うのです。
三島がキーンにあてた最後の手紙
三島からの最後の手紙には
前略 小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓讀は学問的に正に正確でした。小生の行動については、全部わかつていただけると思ひ、何も申しません。ずつと以前から、小生は文士としてではなく武士として死にたいと思つてゐました
(マガジン9 鈴木邦男の愛国問答より引用)
と書かれていたそうです。ここでは冗談でキーンが使用した「魅死魔幽鬼夫」を出しており、三島のキーンへの信頼がうかがえるような内容となっています。
死の真相がどうであれ、キーンと三島の親交の深さは疑う余地がないでしょう。
まとめ
2人の親交は深かった
ノーベル文学賞を受賞したのは川端康成だったが、三島が最有力候補だった
生前最後の取材対応では、キーンの三島に対する思いが綴られている
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