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笑福亭松之助の本名や明石家さんまとの関係は?経歴・功績も偉大!

ぱごろも
ぱごろも
ど~も~🤗

調べていると本当にすごい人だったんだなぁと感じました。

 

2019年2月22日に兵庫県西宮市の病院で、笑福亭松之助(しょうふくていまつのすけ)さんが93歳で亡くなりました。死因は老衰とのことです。


今回は松之助さんについて紹介していきます。

笑福亭松之助とは?

一般的にはタレント明石家さんまの師匠として認知されています。

落語家、放送タレント、俳優と、様々な活動を行っていました。

本名や生い立ち

  • 本名:明石徳三(あかしとくぞう)
  • 生年月日:1925年8月6日
  • 血液型:AB型
  • 長男(父:徳松[とくまつ]は手伝い職、母:ちょうは髪結い)
  • 出身:兵庫県神戸市湊西区(現兵庫区)

生家は湊川神社西側で、有馬道と多門通の交差点付近とのことなので、このあたりでしょうか?

経歴ー芸界入りまでー

  • 母に連れられて新開地でよく遊んだ。近所の寄席や映画館、芝居小屋に親しんだ
  • 漫才では横山エンタツ・花菱アチャコにあこがれを持つ
  • 落語のおもしろさを知ったきっかけは初代桂春團治のレコード
  • 向かいの家のおばさんに雑誌「キング」を借り、連載されていた落語速記を読みふけった
  • また、同誌に掲載された柳家金語楼の新作落語をクラスメイトの前で演じた

横山エンタツ・花菱アチャコの写真はこちら↓


幼いころから落語などに触れ、すでに芸の道に進む基盤ができてきていたのではないでしょうか。

  • 1940年4月(橘尋常高等小学校卒業後)に三菱電機神戸製作所へ入社
  • 仕事をさぼって倉庫で寝たり、長期の病欠を取ってニュース映画専門館のフィルムを自転車で運ぶアルバイトをしたりした
  • 奇術に凝っている時期もあった
  • 召集令状は来ず、戦争に徴兵はされなかった

仕事よりもやはり芸能関係に興味がつきなかったようですね。

芸人へ

終戦後は日雇いの土木作業をしていたそうですが、ある時、

「好きなことしていきてやろ」

と思い立ち、「死んだときに新聞に名前が出る、ちょっとでも人に知ってもらえる」という理由で芸人になろうと思ったそうです。

漫才は相方とケンカするが、噺家であればケンカする心配はないと思い、芸人の中でも落語家を目標に定めました。

  • 1948年6月7日、5代目笑福亭松鶴(しょかく)に弟子入りを志願し、「明日からおいで」と言われる
  • 同年6月19日に初舞台を経験
  • 入門半年後に5代目から「松之助」の名前を与えられる
  • 松之助は兄弟子である笑福亭光鶴(こかく)の前名
  • 1950年1月11日、京都富貴亭で寄席の正式デビューを果たす
  • 1951年9月18日にNHKラジオ大阪放送局「若手演芸家の時間」で放送デビュー。4代目桂米團治から教わった「江戸荒物」を演じた
  • 1957年4月、上方落語協会の結成に参加(のちに退会)

喜劇役者として

1951年10月、松之助は「懐かしの映画五十年」という公演にゲスト出演します。この公演は宝塚新芸座という軽演劇の劇団が行ったもので、松之助ものちに新芸座の正式な座員となります。これが喜劇役者としてのスタートとなりました。

入団当初は、「自分が噺家なのか役者なのか」で悩んだそうですが、先輩座員の三角八重や3代目林家染丸らの言葉から

「自分は『芸人』なんや」

と意識が変わり、芝居は役者、落語は噺家でやると決心しました。

  • 1953年4月、「漫才学校」(ABCラジオ)が開始、番組のヒットとともに人気タレントとなる
  • 1958年に新芸座を去り、吉本興業と契約
  • 1961年4月、松竹に移籍
  • 1964年4月、日本ドリーム観光に移籍
  • 1967年3月、吉本興業に復帰
  • 1970年代以降、新作落語「テレビアラカルト」で落語家としての人気を得る
  • 俳優としても活躍
  • 1996年6月から9か月間、ニュース番組「ニュースステーション」のコメンテーターを担当
  • 80歳代になっても、40分を超える長ネタを演じ、映画監督をつとめ、ブログを開設するなど活動的であった
  • 2009年6月には若手に交じってS-1バトルに挑戦
  • 2016年3月31日、ヨシモトブックスから初の著書である「草や木のように生きられたら」を出版

落語家としてだけではなく、脚本・台本の執筆なども行っており、まさに芸に生きた人物だと思います。

家族

松之助は2度結婚歴があると語っています。

1度目の結婚は1955年4月で、お相手は宝塚歌劇団の団員でした。2人の子どもにめぐまれますが、後に離婚しました。離婚時に慰謝料として家を含むすべての家財道具を前妻側に譲り、2人の子どもが20歳になるまで養育費を払い続けたそうです。

2度目は1967年12月で、お相手は大阪松竹歌劇団の座員である逗子みさをです。2人の間にはのんき、パーポという2人の息子をもうけます。

明石家さんま

松之助さんと言えば、どうしてもさんまの話が付いてきます。

1974年、さんまは松之助に弟子入りを頼みに行きます。このとき、松之助は「なぜ僕を選んだのか」と聞きます。するとさんまは「あんたはセンスがあるから」と答えたそうです。大胆!!しかし、松之助は怒ることなく弟子入りを受け入れました。


2人の関係は非常に良く、様々なエピソードがあります。

  • 修業時代にナンパしながら女の子を笑わせていたことについて「芸人としてむしろ勉強している」と褒めた
  • さんまが売れ出した頃、高座で必ず開口一番「売れているさんまの師匠の笑福亭松之助です」と言っていた
  • さんまの出演するテレビ番組をよく見ており、そのたびに「彼は常に全力投球で、絶対に手を抜いていない」と、感心している
  • ある時松之助は、襟に大きく「さんまの師匠」と書いた羽織を仕立て、高座で着用した
  • 松之助がかぶり物をしてテレビに出ていたことを、「いい歳をして」と、さんまに止めるように忠告する人がいたが、さんまは「それができる人だから、師匠に選んだ」という旨の返事をした
  • 松之助夫人が足の怪我で入院した際、さんまはすぐに東京から西宮市の病院まで見舞いに駆け付けた
  • 松之助は数年に1度の割合で、さんまの冠番組である「さんまのまんま」にゲスト出演している
  • 松之助とさんまは電話よりも手紙でやり取りすることが多い。

お互いを大事に想っていたのでしょうね。

さんまは入門後、しばらくは「笑福亭さんま」という芸名で落語家として活動していました。しかし、松之助さんは、さんまは落語家よりもタレントとしての才能があると見抜き、「笑福亭」を返上させました。その代わりに自分の本名である明石から「明石家」と名付けたそうです。

その方がタレントとして活動しやすいという親心もあったようですが、一方で落語に対して厳しい面もあり、「落語をやらないなら、“笑福亭”を名乗らせるわけにはいかない」という思いもあったようだという話もあります。

明石家さんま

松之助はさんまだけでなく、多くの弟子に自信の本名にちなむ「明石家」の亭号を与えています。明石家+実家の生業で芸名を作っていたため、変わった芸名が多いです。さんまは、「さんまの実家がさんまの干物作ってたから」という理由でつけています。

  • 明石家パーマ(実家が理髪店)
  • 明石家サドル(実家が自転車屋)
  • 明石家パンツ(実家が下着店)

という弟子が過去に存在していたと言われています。

ちなみに実子の長男には明石家のんき(前名:笑福亭梅之助)、次男にはパーポ明石(前名:笑福亭亀之助)という芸名をつけています。

まとめ

笑福亭松之助

明石家さんまの師匠として有名だが、落語家、喜劇役者、放送タレント、俳優など、活躍の幅は広かった

明石家さんまとは非常に良好な師弟関係だったと言える

 

ぱごろも
ぱごろも
心よりご冥福をお祈り申し上げます

 

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ぱごろも
いろんなことに興味が尽きない!でもくすぶっている理学療法士(PT)です。学んだことを発信して、ひとの役に立てればと思っています。わんことふくろうを愛しています♪